2013年10月24日木曜日

歌は客席側にある?

「歌は誰のものか」
プロの歌とか聞いて、熱狂したり感動したりする事があるとしても、我々そんな事そうできるもんじゃない。(一応自覚している) そもそも、アマチュアの歌とプロの歌の違いってなんなんだろね。上手いかどうか、って受け側で何が違ってくるんだろうね。プロの歌は、もしかしたら「歌は歌い手側にある」のかも知れませんが、我々の歌は、お客さん側というか、聞き手の所にある(そうありたい)、と思うんですね。タイトルの「歌は今どこにあるか」という事への答としては、「聞く人の心の中」となる訳です。

「歌は聞き手の心の中で鳴っている」
有名歌手が、かつての自分のヒット曲を歌う際、フレーズをひねったり、歌詞のタイミングをずらして歌ってたりする事ってあるでしょ。でしょ。あれってヘンだよね。いやだよね。なんか鼻につくよね。「そのほうが円熟味がでる」とか勘違いしてるんだろうかね。大間違いだよね。
声が出ないからキー下げて誤魔化すとかだったら解るけど、変に節を変えて歌うってのは歌手のエゴだと思う。その歌を聞いた時、客の頭の中には「昔の記憶にあるあの歌が流れてる」んだから、それを解ってやって欲しいよね。名曲/ヒット曲ってのは、聞く人の心の中に染み込んだ以上、それは聞く人のモノになってる、って思うのさ。
だから僕らが名曲とかヒット曲を歌う場合も、「不用意にヒネらない」「聞き手が戸惑わない」ように心がけているつもりなんだね。そうすると自然とアレンジも簡素になるんだ。

「ステージと客席の間に歌の重心がある」
曲を選ぶ時、アレンジする時、「この歌は、客席と我々の間のどのあたりに位置するだろうか」って考えます、僕は。曲の全部が全部お客さんが知ってる訳ではないし、所詮はこっちが歌いたい歌を歌ってる訳で。それでも「お客の知らない歌」を歌った場合も、「客にどう届くか」は考えます。歌ってみたら「外れだった」という事も勿論あります。一方、「知らない歌だけど、やけに楽しい」っていう存在の曲は「アリ」みたいですね。過去の良い歌と共に、味しめて「突き抜けた」歌をいつも探してます。
 歌が上手いバンドじゃないから(苦笑。上手くなれ、ですよね)、鑑賞する音楽というよりも、歌ってるサマを見て貰って共感して貰えてる、という事だろうかね。どちらかと言えば、僕らのライブってのは現代の「歌声喫茶」みたいなもんなんでしょうね。



「オリジナルを歌わない」
変にオリジナルなんて作って歌っても「腰砕け」になるのは目に見えているし。お客にとってみたら僕らがオリジナルを歌う必然性なんてないのよ。
歌う側にはあるとしたら、「カバー曲はCDが売れても全然儲からないから、商売上オリジナルを歌う必要がある」からですかね。
メンバーで詞を集めた事はありますが、どうもうまくいかず断念しました。『自分の娘が結婚する際の、父親の思い』ってテーマでやったんですけど。




参考となる三波春夫の話
今から10年前の2003年、永六輔のNHK人間講座『人はなぜ歌うか』(ラジオのトークがそのままテキストになってます。もう入手不可でしょうが)の中で、三波春夫と一緒に老人ホーム慰問に行った時の話がとても興味深かった。
施設に行ってみたら、1人歌好きなお婆さんが居て、三波春夫が登場しても古い曲を延々と歌い続けている。そしたら三波春夫はお婆さんの隣に座って一緒に歌いだして(三波春夫を心待ちにしていた周りのみんなもこれに合わせて歌った)、自分の持ち歌は一切歌わずに終えたそうだ。
帰り際に三波春夫が永六輔に、「我々はいままで『歌手は自分の歌を歌いさえすれば客は喜ぶ』なんて思ってたのではないでしょうか。それは傲慢であって、そもそも歌は聞き手1人1人の中にあるものです。もっと我々歌手は謙虚にならなくてはいけません。」と言ったそうだ。凄いねぇ三波春夫。

参考となる宮沢和史(Boom)の話
これはテレビインタビューで本人が語ってたんだけど、「アルゼンチンを始め10カ国以上で『島歌』が流行って、色々な人がカバーしている」とか言ってました。歌は、作った本人のものから既に離れて、生きているんですね。誰が作ったか、誰が歌ってるかなんて事は、聞いて感動した人にとって、実はあんまり関係ないんですね。

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